アメリカ公共政策大学院の授業②:ルワンダの虐殺と紛争メカニズム


現在、アメリカのブリッジポート大学の公共政策大学院に留学しているMitsuです。

以前の記事では、私が取っている授業の一つである「文化と開発」についてご紹介しましたが、今回は「国際紛争と交渉」という授業についてです。

実はこの授業は、うちの公共政策大学院の中でもかなりの目玉授業かつ必須科目となっていて、ブリッジポート大学の副学長でもあるワード教授が自ら担当しています。

Thomas J. Ward教授

国際政治の重要な役割の一つは、国際秩序の維持にありますが、紛争とはそれが破壊、または崩壊している状態だと言えます。この授業ではまず、紛争をいかに分類わけして分析するのかといった観点から学んでいきました。

 

現在の紛争、戦争との違い

 

紛争を歴史的に見たとき、冷戦の前と後で大きくその形態や種類が変化してきたと言った見解が一般的です。

冷戦以前は、紛争と言えばほとんど戦争と同義語のように扱われ、国に雇われた兵士と言う戦争のプロ同士が、領土を奪い合うために命を懸けて戦うことをさしました。

人間の科学技術の発展も、残念ながら歴史的には、戦争のための武器の開発という目的にあった面は否定できません。

しかし現代では、そういった国家間同士の戦争よりも、国内における内戦が注目されるケースが多くあります。それは、市民vs政府であったり、市民vs市民が、民族や宗教、イデオロギーなどの違いによって引き起こす争いで、紛争と呼ばれています。

この紛争には、核爆弾や大陸間弾道弾ミサイルなどの大量破壊兵器は必要なく、目の前の人間を殺傷できればよいだけの武器、それこそナイフや火炎瓶で戦いが始まります。

また、当事者が市民であり、組織化されていない場合もあるため、国際法も国連の権威もほとんど通用しません。このように、現在の紛争には、その全体像が見えづらく、分かりづらいと言った特徴があります。

 

紛争曲線(The Curve of Conflict)

 

ニュースなどで紛争について取り上げられているのを見ると、なぜこんな悲惨な事が突然起こってしまうのかと驚くこともあるかと思います。しかし実際には紛争に至る前に、紛争の当事者たちは何ステップもの交渉を重ねて来ているのが一般的です。

それらの交渉ステップや当事者間の関係性、そして紛争の発生から収拾までを含めて分かりやすく表したのが、下記の紛争曲線です。

引用元:USIP

まずは左端にご注目ください。この縦のラインが紛争、または平和の度合いを表しています。それぞれの用語の意味を簡単に説明すると次のようになります。

Durable Peace:恒久的平和。紛争が発生する余地が全くない状態で、比較的長い期間続きます。例としてアメリカとカナダとの関係やEU内の国同士の関係があげられます。

Stable Peace:安定的な平和。双方に対立点となる部分がありながらも、紛争に発展する可能性があまり高くない状態を言います。例として現在のアメリカとロシア、日本と韓国の関係があげられます。

Unstable Peace:不安定な平和。双方の間に緊張と疑心暗鬼が高まり、お互いを「敵」とみなしてますが、軍事力の配備にまでは至っていない状態です。例としてはフィリピンで独裁政権を倒したエドゥサ革命などの、いわゆる無血革命があげられます。

Crisis:危機的状況。対立する双方が武器を手に対峙している状態です。ただし、小競り合いは発生したとしても、武器はあくまで相手を脅す道具として用いられている段階です。いわゆる一触即発の状態であり、全面戦争に陥る可能性が高い段階でもあります。

War:戦争、または紛争。戦闘、つまり殺し合いをしている状態です。暴力が正当化され、また犠牲者が生まれることで感情的にもエスカレートしていき、収拾がつかなくなります。

 

次に、紛争曲線の下部分に書かれている用語ですが、Early Stageというのは、紛争が起こる前におこなう外交手段やポリシー、いわゆる紛争予防に取り組む時期のことです。

Mid Conflictは現在進行形で紛争状態になっている期間をさします。

また、Late Stageは紛争発生後に混乱を収拾して、安定的な平和か恒久的な平和のレベルまで平和構築をする時期です。日本が自衛隊を派遣したPKOというのは、この中のPeacekeepingを担当する業務のことをいいます。

 

ルワンダ紛争(ジェノサイド)の例

 

紛争研究で必ずと言っていいほど事例として取り上げられるのが、ルワンダ紛争(1990~1993)と、その悲しき結末としての大量虐殺(ジェノサイド)です。

ルワンダはアフリカの中央に位置する小国で、北海道の3分の1程度の面積しかありません。

引用元:Wikipedia

第一次世界大戦によってドイツが失ったルワンダの地は、その後ベルギーが引き継いで植民地としていました。

当時ルワンダにはフツ族とツチ族という民族がいましたが、両者の間には明確な区別がなく共存していました(安定的な平和)。しかしベルギーは統治をしやすくするために、IDカードを配布するなどして両者を区別し、ツチ族をより重宝するようになりました。

その結果、フツ族とツチ族の間で対立感情が生まれるようになり、1950年代から、ベルギー、フツ族、ツチ族は、お互い敵対関係に発展していきました(不安定な平和)。関係はそのまま紛争に発展し(危機的状況・紛争)、最終的にルワンダは1962年にベルギーからの独立を勝ち取ります。

その後はフツ族系の大統領が政権を握り、どの程度ツチ族を排除または融和するかというのが各政権のカラーとなりました。同時に、排除されたツチ族が隣国で武装勢力を創設するなどして抵抗を示しました。しかし、それから20年ほどの間は、経済成長に支えられていったん落ち着きを取り戻します(不安定な平和)

しかし、1980年代の後半に、ツチ族系の難民が隣国で新たな武装勢力を組織すると、再び対立は激化します(紛争)が、一時期には平和協定を結び、国連軍が展開するなどして落ち着きを取り戻しました(不安定な平和)

しかし、その後にフツ族系の大統領が暗殺されたことが引き金となって、緊張が一気に高まります(危機的状況)。そして、その暗殺がツチ族によるものだと信じた多くのフツ族が、ラジオ放送に扇動される形でツチ族に対して大量虐殺・ジェノサイドを始めます(紛争)。最終的に、100日間で100万人が殺害されるに至りました。

こうしてみると、ルワンダにおけるあの紛争と虐殺は、実は数十年の時をかけて徐々に蓄積された敵対感情が生み出した悲劇だといえます。逆に言えば、その数十年の間には、平和裏にお互いの関係を収めるチャンスが何度もあったはずです。

実際に双方は常に争っていたわけではなく、緊張の度合いは何度も上がり下がりを繰り返していました。しかし、そういった機会を活かすことなく、対立点を残したまま時間だけが過ぎてしまった結果が、あの虐殺であったといえます。

こういった紛争が発生するまでのメカニズムを知り、その背景を研究することは、実際の紛争状態にある両者に対して、具体的な解決策を提示するうえでとても重要な作業だと言えます。また、現在紛争が起こりそうな状態にある両者に対しても、効果的な紛争予防のアプローチを示すことにもつながります。

次回は、この紛争のメカニズムについて、また別の切り口からひも解いてみたいと思います。

なお、今回ご紹介したルワンダの虐殺については、映画「ホテル・ルワンダ」「ルワンダの涙」に詳しく描かれています。興味のある方は是非ご覧になってみてください。

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